被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト
玄海原発:町が描いた夢/10止 上がらない反対の声
毎日新聞(2009/03/17)

 1975年、九州電力玄海原発1号機が玄海町の値賀崎に巨大な円筒の姿を現し、運転を始めた。「これで税金が増えるぞ」。町議長を6期務め、誘致の先頭に立ってきた中山〓(しげき)さん(86)は、そう思いながら1号機を眺めたという。

 「当時は交通の便が悪くてね。工場誘致は不可能。税金が入る仕組みがなかった」。県外の原発を視察し、危険性にも疑問を持たなかった。「国が進めるのだから安全に違いない」。だが3、4号機の増設には反対の構えも見せた。「作戦ですよ」と中山さん。「地元振興名目で、九電から1戸あたり100万円取った」

 一方、反原発の市民団体「玄海原発対策住民会議」副会長で元中学教諭の仲秋喜道さん(79)は「大変なことになった」と1号機を見つめた。玄界灘に突き出した岬は、かつて松林が生い茂り、生徒と遠足で訪れた場所だった。

 仲秋さんは当時、少なかった資料をかき集めて原発について勉強し、県教職員組合の教諭らと反対運動を展開した。だが、最初は集まった人たちも「兄弟や親せきが原発で飯を食うようになると、周囲の目を気にするようになった」。運動は広がらないばかりか、推進派から「反対があればあるほどカネが入る」と感謝されることさえあったという。

  ◆  ◆  ◆

 住民の反対が最初で最後の大きな盛り上がりを見せたのは、81~82年だった。増設が表面化し、農協青年部が中心となって町長のリコール運動にまで発展した。79年には米・スリーマイル島の原発が炉心溶融事故を起こしていた。

 参加した60代の男性は「カネになるからといって何でも受け入れたらいかんと、毎晩集まった」。反対派メンバーの多くは、小さな子供を抱えていたという。

 請求に必要な有権者の3分の1の署名を一時は集めたが、提出直前、本人たちから次々と取り消しを求められた。最終的には29人分が不足し、運動は終息。リーダーの青年は町を去った。

 仲秋さんは「原発は地域振興でなく(原発マネーへの)依存体質を作るだけ。本当の町づくりをつぶす」と指摘する。

 中山さんは「原発のおかげで道路もよくなり、小さな町でも合併しないでいられる」と言う。自宅の応接間。1号機の臨界を記念した町や九電関係者の寄せ書きの故人に線が引かれていた。「昔を知る人も少なくなった」

  ◆  ◆  ◆

 今年11月中旬にもMOX(ウランとプルトニウムの混合酸化物)燃料を使用する全国初のプルサーマルが玄海原発で始まろうとしている。

 仲秋さんは「口には出さないが、進んで賛成という住民はいない」と言う。「住民も原発に慣れっこ」と言う中山さんだが、プルサーマルについては「私なら他でいっぺん使ってから、ここでさせる」と慎重な姿勢も見せる。

 増設に反対した地元の男性は「安全という声も危険という声もあるけん、判断できん。自分の生計を考えるので一生懸命。今はもう考えんごつしとる」。以前の仲間との間でも、プルサーマルが話題に上ることはない。

 MOX燃料を積んだ2隻の運搬船は今月上旬、仏・シェルブール港を後にした。あと2カ月もすれば、この町に到着する。=終わり

 (この連載は関谷俊介が担当しました)



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Posted by 昏君 at 17:05│Comments(0)玄海原発
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平田義信